2009年10月号・社説 →e-mail

「立体農業」  
明峯哲夫(農業生物学研究室/NPO・有機農業技術会議)

 

(1)“人間の後には沙漠あり”   

 『Tree Crops: A Permanent Agriculture』という本がある。アメリカ合衆国の農学者ジョン・ラッセル・スミス(John Russell Smith)が1929年に書いたものだ。この中で彼は、山間部や丘陵地帯などの傾斜地での鋤耕(じょこう)農業を鋭く批判する。森林を伐採し農地を拓く。鋤で耕し、穀物を作る。しかしこうして裸にされ、耕された土は徐々に雨に流され、風で吹き飛ばされる。“土壌流失”と呼ばれる現象である。その結果やがてそこは表土を失い不毛の地と化す。中国で、シリアやギリシャで、そしてグアテマラで、人類の農耕による土壌破壊は世界中で引き起こされてきた、と著者は述べる。
 この本が出版された当時、合衆国でも土壌流失は深刻だった。ヨーロッパで栽培される穀物(コムギ、オオムギ、エンバク、ライムギなど)は地面を覆って、その根は土壌をしっかり抑える。しかし合衆国で栽培されるトウモロコシ、ワタ、タバコなどの作物の根は、土を捕捉する力が弱く、起伏のある農地で栽培すると、土壌流失が起こる。
 「最近インデアンの手からー彼等は地力を破壊しなかったー無理矢理に奪取したあの新開拓地中の新開拓地なるオクラホマ州ですら百萬哩の峡谷を持ち(引用者・注1)、茫漠たる沃野が、荒廃に帰して放棄せられた」。
 1930年代、合衆国中西部の農業地帯は“ダストボウル(dust bowl)”の時代を迎える。日照りにより乾燥しきった土は強風に舞い上がり、巨大な土煙となってはるか大西洋まで吹き飛ばされていった。表土を失い痩せ地と化す農地。農民たちはそこを棄て、遠隔の地への移住を強いられる。カリフォルニアを目指すオクラホマの移住者たちの苦難の旅は、ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」(1939年)でリアルに描かれている。
 スミスは言う。「田園流失、殊にアメリカに於いては、それが凡ゆる荒廃の原因の中で最大のものである。それは文明の根底を揺るがし、生命そのものの基礎を危くする。・・・流失してしまった田園は永久に帰ってこない。さればこそ旧大陸では“人間の後には沙漠あり(引用者・注2)”という諺がある。然らば之に対して何等かの講ずべき手段があるのであろうか?」。
 こうして著者が提案するのが、傾斜地における鋤耕農業の廃止と、tree crops(樹木作物)、特に穀樹を栽培する“樹木農業”の振興である。穀樹とは、クリ、カシ、クルミ、ペカンなど堅果を着ける樹木をいう。
「丘陵地帯で食糧生産の自然的機関となるものは、小麦その他の草類ではなくて、実は樹木であることがわかるであろう。一本の樫の木はよく百ポンド乃至一トンの団栗(立派な炭水化物食品である)を生産する。或る種の胡桃(Hyckory)やペカン(Pecan)は樽で量るほどの堅果を供給する。胡桃は二石からの果を産出する。又家畜の飼料としてもっとも適当な豆を実らす樹(引用者・注3)がある。この豆を飼料として用ふれば、今日のまぐさを使用するよりも遥かに、一エーカー当たりの肉若しくはミルクの産出量が増収されるであろう」。
 彼によると、樹木農業の優れた点は以下のようである。

 ① 穀樹の産する堅果は穀物と比較して、食糧あるいは飼料として栄養的に遜色なく、またはそれを凌ぐ
 ② 堅果の収穫量は高い
 ③ 鋤耕の必要がなく、土壌流失の心配がない
 ④ 急な勾配、岩石が多いなど穀類などの耕作に不適当な場所に適合している
 ⑤ 穀物、牧草、馬鈴薯などを台無しにしてしまう程の旱魃でも、さして害がでない
 ⑥ 接木や芽接の方法で、優良な性質を持った個体を簡単に増殖させうる

 著者はさらに“二階農業”を提案する。二階農業とは、樹木の下に一年生作物を植え付けることである。このことで一階農業から得られるよりもはるかに大きな収穫が得られる。この種の農業は既に地中海方面では実際に行われていると、著者はスペイン・マジョルカ島の例を紹介している。
 この島の耕地の90%は樹木の下に一年生作物を植え付けている。例えば、イチジクの樹の下で、コムギ、クローバー、ヒヨコマメなどが規則正しく輪作されている。クローバーは二年間作付けられ、二年目にヒツジが放牧される。コムギもイチジクも最大限の収穫は得られないが、双方とも75%程の収穫があり、併せて百五十%の成績が挙げられる。
さらにスペインやポルトガルのある地方の様子を以下のように描写する。
 「畑の中に何処でも冬青樹(引用者・注4)が芽を出すと、大切にしてそのまま其処に成長させる。その木の周囲や下には、小麦と豆、大麦と牧草等が、之も機械の力を借りずに、自然のまま播付けてある。此の木と草との合作は実に美しい公園のやうな光景を現出している。穀物を作ることが樫樹をして団栗を多量に実らせる結果を生じ、また穀物を収穫した跡へは豚が代りに入れられて団栗を拾ひ集める」。

(2)“乳と蜜の流れる郷”

 この著作は1933年、『立体農業の研究』として翻訳出版された(恒星社発行)。翻訳者は賀川豊彦・内山俊雄である(上記の引用はこの翻訳書から)。賀川(注5)はこの本の冒頭に「序論 日本における立体農業」を寄せている。
 「高層建築は上に上に伸び上り、街路はコンクリートによつて舗装せられ、車の轍にはゴムが捲かれ、凡ての食物は、その原形を損ねて食膳に供せられ、自然が与えてくれる凡ての美観と、土が保障してくれる安住の聖地は、文明生活から奪ひ去られんとしている。都会には失業者が満ち溢れ、土を見捨てた者に刑罰が酬いて来ている。山林は荒れ、荒野は放擲され、徒らに盛場に浮浪者が群がる。私が文明に対して攻撃したいのは全くこの点にある」。
 賀川は都市の巨大化に反対し、「私は森林と、畑と、果樹園を小都市の傍らに並べておきたい。出来ることなら、小都会をも田園都市の形において設計したい」と述べる。そしてさらに疲弊した山間の農村部では、ラッセル・スミスが提案する“立体農業”こそ実践されなければならないと主張する。彼は日本の林野面積が2289万町歩(昭和2年)にも上ることを指摘し、「日本の面積はけして狭くはない。ただ山を有用に食糧資源にしようとしていないことが我々の誤謬である。我々の理想は木材と食糧と、衣服の原料が、三つとも山からとれるようにすることである」と述べる。
 聖書の「創世記」。エデンの園。蛇に誘惑されたイヴはそこに生える禁断の“知恵の樹”の実を食べてしまう。神の怒りに触れたアダムとイブは楽園を追われ、永遠に“生命の樹”から隔離される。こうして平面を這うばかりの蛇が教えた“平面農業”が、追放された人類の文明を支えるものとなる。それ以降人間は樹を次々と切り倒し農地とし、やがてそこは砂漠化した。
 「今日バビロンの平野は、一面の大沙漠である。然し何千年か昔、そこが蜜と乳の流るる大森林で蔽われていたことは、世界の学者の意見が一致している。そしてこの大森林を沙漠に換えてしまつたのは、蛇が女に教えた農業の結果である」。
 キリスト者であった賀川の主張は、“生命の樹”の再生、すなわち“立体農業”の確立だった。
賀川は全国を歩くうちに、日本列島の先住民族(縄文人)がドングリやトチの実を主要食物としていたこと、そして今もなおその風習がよく保存されている地方があることを知る。
 「ところが、この貴い栃の木を、最近はどしどし伐り払って、百年から二百年の木を一本八円位に売り払つていることを聞いて、私は全く悲しくなつてしまつたのである。・・・然し、どうせ山奥の他の木をあまり育てることが出来ない所であれば、さういう大きな木を四五本持つて居れば、一年中それだけで食へる訳である。・・・山はそれで人間の食糧資源となり、洪水は少なくなり、美観は増し、人間の安息所がそこに得られる訳である」。
 賀川のいう“立体農業”は単なる樹木農業ではない。より総合的、複合的な農業経営を意味する。
 「然し立体農業は、立体的作物だけを意味しない。地面を立体的に使はうという野心が含まれている。我々は、樹木作物の間に蜂を飼ひ、豚を飼ひ、山羊を飼ふことは容易であり、その傍らを流れる小川に鯉を飼ふことはさう困難ではないと思つている。その他、土地を有効に、多角的にまた立体的に組合わせて日本の土地を利用すれば、今まで棄ててあつた日本の原野が充分に生き返ると私は思つている」。
 この本が翻訳されたのは1930年(昭和5年)に始まる農村恐慌の只中だった。この時、日本農業の二大商品だった米と繭の価格は急落、現金収入を求めて都市に出稼ぎしていた多くの農民は失業し帰農せざるをえなくなった。さらに31年、34年の二度にわたる東北の冷害が追い討ちをかけた。農村は貧窮の淵に喘いでいたのである。賀川は『立体農業の研究』と同時期に(1935年)出版した小説『乳と蜜の流れる郷』(復刻版・家の光協会・2009年)の中で、稲作と養蚕へのこだわりが強い当時の山村農業を克服し、より“立体的な”農業経営をめざす農民たちの姿を描いている。
 東京の「武蔵野農民福音学校」(注6)をクルミの苗を求めて訪ねた主人公の農村青年に、そこの教師(賀川の分身であろう)は次のように語りかける。
 「ぜひあなたが、疲弊した農村を救おうと思っていらっしゃるなら、ヤギをお飼いなさいよ。接ぎ木したクルミでも、まだ四、五年は待たなくちゃならんですからね。それまで食いつなぐにはヤギを飼うのがいちばんいいですよ。どんなに大きな飢饉があっても、野山には雑草が無いっていうことは、めったにありませんし、山の木の葉がついていないということは、まあちょっとないですからね。困っている農村にヤギがたくさんおれば、飢饉がきても絶対に大丈夫ですよ」。
 やがて主人公の青年たちは、桑畑にクルミを植え、山で拾ったドングリをニワトリやブタの餌にし、川でコイを飼い、林の中でヤギやミツバチを飼い、シイタケを養殖し始める。

(3)“鶏で日給、豚で月給、椎茸と栗で年俸、山林で養老年金” 
           
 賀川の提案する立体農業を実践し、その体系化を試みた農民の一人に久宗 壮がいる。久宗は1907年、岡山県久米町に生まれた(注7)。地元の農学校を卒業後、(財)大原奨農会農業研究所(岡山大学資源生物科学研究所の前身)所長の近藤万太郎(種子学)の助手を5年間務める。そんな久宗が岡山県津山での賀川の伝道説教を聞いたのは、1930年5月のことだった。貧しい山村に生まれ、若くして弟が肺結核を患い、貧乏のドン底につきおとされていた久宗は、「不幸に打ち克つことが人生最大の幸福である」と説く賀川に大いに励まされる。賀川は、久宗の面会に快く応じ、立体農業の研究を勧める。この時以来久宗は故郷で農業に従事しながら、1985年に没するまで立体農業の研究に没頭する。
 1950年、それまでの実践の成果を踏まえて、久宗は『日本再建と立体農業』(日本文教出版)を出版した。
 終戦直後、農村では「通貨膨張」と「食糧不足」により“百姓成金”が各地に出る程だった。しかし久宗はこの好況は一時的なもので、早晩不況に暗転するだろうと予測する。それは安い外国産農産物の輸入がまもなく本格化するに違いないと考えられるからだ。その備えとして彼は、農家が“拝金主義”から脱却し、自給経済に立脚した農業経営を確立しなければならないとして、こう述べる。
 「そうなればこそ、私は立体農業の確立こそ、明日の農村再建にもつとも大きな使命をもち、やがて農村の安定と高い生産文化をもたらし、日本再建への明るい途に通ずるものであることを確信する」。
 この著作の前半では、日本の農村が窮乏化する原因が分析される。
 彼が挙げる日本の農村が窮乏化する自然的災厄、人間的災厄は以下のようである。

・自然的災厄
 山岳農業の不振/耕地の狭小/人口過剰/周期的天災
・人間的災厄
 無畜農業/米麦一辺倒農業/交換経済中心の経営/若い農民が夢をもてない/農村の封建性/農民の迷信好き/土地の利用度が低い/共同心の欠乏/農民教育の貧困/無知と研究心の欠如/食生活の誤り(極端な白米の大食と貧弱な副食物)

 これらの「災厄」を克服するものとして、立体農業が提唱される。
 「立体農業は単なる山岳農業ではない。多角形農業でももちろん無い。粗放的な略奪農業では断じてない。またいわゆる樹木農業でもないことは明らかである。立体農業はそれらを一切ひつくるめて、あらゆる山野、傾斜地、空地、廃地、未開拓地を乳と蜜の流れる理想郷とする理想農業である。愛土農業である。」
 彼は“稼ぐ農業”から“食える農業”の転換を目指す。それは“鶏で日給、豚で月給、椎茸と栗で年俸、山林で養老年金”というように、山村の立地を最大限に活用した「有畜複合立体農業」であった。
 著者の実践する立体農業の内容は、以下のように紹介されている。

① 灰焼場の設置
 「由来、草木灰は本邦農家にとつて、堆肥とともに重要な加里肥料であり、・・・灰焼場のない農家はちょうど手足のないようなものであつて、完全な農民とはいえない」。

② ミミズ耕法の利用
 「ミミズは多くの人が想像する以上に、農業上に重要な役目を果たしている。・・・ミミズを増殖する方法としては、厩肥、肥土、野菜屑の三者を略平均に混合して、・・・堆積、その上を古ムシロ一、二枚かけて放置すれば、春から秋にかけて猛烈な勢で増加してゆく」。

③ サイロの建設
 「日本の農家の家畜に対する大きい欠点は、冬の餌を用意しないことである。・・・冬の餌として、農家はサイローを作りサイレージを製造して、家畜の粗飼料に当てなければならない。・・・豆科の草は蛋白質が多く、禾本科のものは糖分が多いので、なるべく禾本科の野草と豆科植物を混合してつめることが完全である」。

④ 畜舎の改造
「 ・・・ここに問題となるのは、これまでの農家の深厩式の畜舎である。糞尿が常に混合されているので、糞の腐熟発酵のために尿の貴重な成分がまつたく犠牲にされてしまうのである。・・・だから畜舎内の厩肥を取扱うために最も大切なことは、畜舎の構造を改良し、できるだけ尿の損失を少なくし、之を分離するように努めることである」。

⑤ 堆肥舎の改造
 「厩肥は畜舎から取出して堆積して腐熟させないと肥料にならない。・・・堆肥舎は必ず床をコンクリートにして、傾斜をつけ肥溜を設ける。厩肥の運搬に便利であるところ、また、堆積を風雨にあわせるのは禁物なので、なるべく大きいものが望ましい。日光のあたるところを避け、なるべく冷涼な北面がよい。その広さは、家畜一頭に対し二〜三坪くらい取ると良い。風や雨が通らぬように屋根をすること」。

⑥ 有畜農業
 「動物から栄養をとり経済上の打開策としては必ず綿羊、山羊、豚、鶏、兎、アヒル、蜜蜂及び鯉などの飼育をさかんにすることである。これは雑草の利用上から見ても、また、肥料の自給上から見ても有利であり、わが国のような零細農の多いところでは、大家畜よりも小家畜が安全でもあり有利でもある。・・・(豚の肥育は)購入飼料に依存していたならば採算がとれない。そこで甘藷を大増産し、そのつるや薯を主体で飼えば、十分採算はとれる。・・・養鶏も、肥料の自給主義で、自家生産の飼料を主体にしてゆくならば十分採算がとれるものである。・・・アヒルは鶏の豚といわれるくらい粗食で育つものである。鶏の食べ残りや、その他野菜屑で飼育可能、・・・水田があれば反当り五〜六羽放飼すれば、除草害虫とりなど行い、稲作には肥料も提供し得て結果もよい。・・・水利の便のあるところでは、稲田養鯉を開始し、日常、鯉の料理を食卓に供したいものである。・・・砂糖の自給と疲労回復のため蜜蜂の飼育がある・・・」。

⑦ 樹木農業
 この項は、主にラッセル・スミスの『立体農業論』に依って、クルミ、ぺカン、カキ、クリなどの実の食糧(特に食糧飢饉時の)、飼料としての優れた点を紹介する。さらに傾斜地での樹木栽培や採草地の肥培に必要な樹木として「肥料木」を述べる。肥料木とは根に根粒を持ち、共生細菌によった窒素固定が行われるマメ科やハンノキを指す。

⑧ 庭園農業
「庭園に果樹を植えることは、美的風致を増し、学究的興味と実を収穫する経済的利益があり、加えて食糧の一助ともなるから、今後は大いに盛んにしなければならない」。以下庭園農業を興すためにとり入れられるべき果樹として、クリ、菓子クルミ、カキ、ペカン、マルベリー(桑イチゴ)などについて、その特性、品種、栽培法、繁殖法、利用法などを詳述する。

⑨ 換金作物
 「今、どこの農村も、金詰りで、農村恐慌来におそれおののいている。これが対策は、経営の立体化、農村の工業化、協同化による近代化など、種々論ぜられているが、一方では外貨獲得に役立つ輸出向けの貿易作物に転換することも考えなければなるまい。もちろん今の食糧事情ではただちに転換困難なものであるが、将来を想えば一応考えてみるべき問題である」。“貿易作物”あるいは副業として現金収入を狙うものとして、以下のものが挙げられる。生糸、茶、温州ミカン、干ガキ、クリ(マロングラッセ)、兎の毛皮、シイタケ。

⑩ 農産加工
「無駄なお金をかけずに栄養をとり、疲労をもち越さぬ食生活は、農産食品の加工や調理を研究し、これを実践に移すことである。・・・農家でこれからぜひとも自家製造しなければならぬものは、米麹、味噌麹、自家用醤油、味噌類、各種家庭向ソース、ケチヤツプ、水飴、白飴、甘酒、豆腐、納豆、コンニヤク、パン、ビスケツト、ジヤム、ビン詰、漬物などである。・・・食品加工の研究は、単に生活にうるおいをもたらすばかりでなく、商品価値を向上さし、輸送に便となり、廃物は利用、更正され、貯蔵にも耐え、これらは農村工業の基礎ともなりうるのである」。

⑪ 協同組合
 デンマークの農村の協同組合は、七つの機構があることを紹介する。それは医療組合、生産組合、販売組合、信用組合、共済組合、利用組合、購買組合である。
「もし、わが国でもこの七つの組合が、十分な活動を続けるならば、真に理想郷が生まれるであろう」。
 以下、協同組合による農村工業(甘藷からの澱粉採取、精米工場、米糠からの石鹸製造、豚肉加工、コンニャク製造、大豆などからの搾油、豆腐製造、製剤工場、農具修理工場など)への進出、農民教育(科学的農業技術の講習講演会、有為な青年の進学助成など)の必要性を述べる。

⑫ 食生活の改善
 「われわれが健康で働くためには、蛋白質、脂肪、澱粉、無機質、ビタミンの五大栄養素を高度にとること、適当な休養をとることが必要なことは、今日の栄養学の常識である。ところが、日常生活で蛋白質、脂肪の圧倒的不足、澱粉の過剰、副食物の偏食または貧弱、農繁期の粗食、料理の下手、栄養無視の調理方法などの欠点を是正し、日本食を合理化するためにはどうしても、次の事項を実現する必要がある」。

生産の計画化
 「一年中の食物を、年中いろいろの成分をもつた蔬菜類、果物類及び蛋白質、脂肪の多い肉類、魚類を片寄らずに生産し、またそれを貯えて利用すること、調理することが大切である。」そのためには小家畜の飼育、タニシ、ドジヨウ、小魚などの利用、大豆の増産と加工を奨励する。また野菜類の年間を通じた計画生産、端境期のためのワラビ、フキ、ゼンマイなどの野草の乾燥貯蔵を勧める。

台所の改善
 「わが国の農村の台所は、タダツ広く上つたり下りすることが多く、また暗く、じめじめした感がする。従つて非能率的、非衛生的この上もない欠点がある。これがためここではたらく農村婦人は、一日数里の道を歩むと同様な重労働をやつている。煮る設備しかないので、常に単調な煮付料理一てん張りである。今後の台所は明るく、立体的利用ができ、煮る、蒸す、焼くことの出来る設備を完備していきたいものである」。

調理の工夫
 「栄養をぜいたくと心得違いするものがあるが、これは大きな誤りである。栄養はむらなく毎日とることが大切である。疲れて病気になつてから栄養をとるよりも、疲れぬよう、病気せぬように食べることが健康上、能率上に大切であり、効果も大であることを忘れずに、日々の調理を工夫すべきである。毎日同じ芋と菜葉の汁に同じ漬物といつた単調な食べ方をぜひ改め、材料を生かしておいしく食べさせる食物の調理の研究が大切である」。

食品と栄養
 「日本食の調味料も、これまで醤油、味噌、酢、砂糖が主体をなしていたが、今後は、支那料理や西洋料理の長所をとり入れた調理を行うために、塩、胡椒、油、バター、牛乳、トマトケチヤツプ、ソース類を用いる方向に進めることも、栄養改善上大切なことと思う」。

食卓の礼儀
 「食卓での態度は、感謝と明朗が大切である。それにより各種の栄養素は血や肉や力と化し、より以上の健康を加えるであろう。これこそ心の栄養となるであろう。・・・おたがいはせめて食事の際だけでも、明朗な態度をもつてふるまうことが望ましい」。

 「復刻版 岡山畜産便り昭和29年2月号」(注8)に当時の久宗農園の現況がルポされている。それによると、当時の農園経営の大要は以下の通りだった。

水田 3反4畝(裏作には小麦とレンゲ)
畑 2反6畝
家畜 乳牛2頭/豚2頭/綿羊4頭/山羊1頭/鶏165羽
(他に、アンゴラ兎4羽/蜜蜂4群/鯉/ドジョウ池/ウナギ池など)
宅地 約300坪 果樹類(菓子クルミ/ペカン/カキ/クリ/ヒックス/マルベリー/ポポー/ブドウ/イチジク/ビワ/アケビ/ザクロ/ビックリグミなど)
果樹下にはシイタケ/ヒラタケ、バタリー鶏舎2棟
山林 5町歩(大部分は松、雑木、ヒノキ、スギの植林地)
クリ園 7反
収入の比率
家畜類 60%
 シイタケ・ヒラタケ 20%
 種苗・種菌 10%
 果樹類 他 10%

ルポの最後に久宗の言葉が引用されている。
「私は耕地6反という小農である。しかし、山野をも含めた立体農業経営をしているので、種々妙味のある生活を営んでいる。しかもそれは、篤農技術によらない、誰でも真似のできる手段である。ただ傾斜地、山林に恵まれた山村特有なものだけである。立体農業を実践することにより、地力が増進し自給肥料中心で米と麦が、この作洲の奥地でも反収10俵以上という夢想だにしなかった収穫が与えられるようになった」。

(4)“百花繚乱”の時代が生み出したもの 
        
1945年夏の敗戦。混乱した日本社会で特に深刻なのは食糧の絶対的不足だった。長期の臨戦体制で疲弊し切った農村・農業を再建し、食糧を増産することは誰の目からみても急務の課題だった。この時からしばらく、日本の農業は“百花繚乱”の時代を迎える。
技術や農法についても様々な提案がなされ、実践された。夥しい数の専門書、普及書が出版される。これらは農業研究者・技術者だけでなく、現場の農民たちにも広く読まれた。「彷彿として村々に興ってきた農事研究会」の数は全国で1万八千余にも及んだという(注9)。「農民の、農民に手による、農民のための自主的な農事研究会」は、新しい作目、品種、農法などについて農民自身が試験研究する組織だった。新しい農業、新しい農村のあり方を求めるこの時代の農民たちの、堰を切ったような意欲が伺われる。
この時代に出版された農書は、大きく二つに分けられる。一つはイネ・ムギ・ダイズ・サツマイモ・バレイシュなど主要な作物の増収技術書である。この時代の作物栽培はまだ堆肥投与が基本だったから、これらの書物は有機農業技術論の立場からも少なからず参考になる。もう一つは栽培体系や経営体系を論じるものだ。例えば『傾斜地農業』(注10)や『田畑輪換の実際』(注11)などは、悪条件の土地、あるいは零細な農地での、多様で持続的な作物の作付体系を探っている。著者は国や地方自治体の農業試験場の研究者である。一方在野の篤農家による新しい農法の提案もこの時代の際立った特徴だった。例えば「山岸農業養鶏法」(注12)は、1ヘクタールの米作と100羽のニワトリ飼育との相互扶助的結合により肥料と飼料の自給が可能としている。
この時代の提案・実践は官も民も問わず、自然や生物に潜在する諸力を発見し、それを最大限発揮させることで農業生産力を解放しようとするものといってよい。久宗の『日本再建と立体農業』はその典型的な著作の一つだった。
この久宗の立体農業論にはルーツがあった。戦前に書かれたラッセル・スミスの“樹木農業論”“二階農業論”である。スミスの問題意識は何よりも傾斜地における土壌流失対策だった。そのスミスの著書を翻訳した賀川は、樹木農業を“立体農業”と言い換え、それを“山岳農業論”として日本列島に適用しようとした。そしてさらにそれを、里山を背景とした零細な一農家の立場から“有畜複合農業”として継承したのが久宗であった。スミスの樹木農業論は日本列島で独自の“進化”を遂げたのである。
この時代誰もが貧困から脱出することを願っていた。しかしこの“貧困からの脱出”を巡っては、農民については二つのパラダイムが存在していた。一つは以上で紹介した農業生産力の解放による貧困からの脱出である。それはまさに久宗が主張する“自給”というパラダイムである。農民の豊かさは自給性豊かな農法、暮らしにあると考える。つまり“乳と蜜の流れる郷”の実現である。もう一つは農民の豊かさを経済的豊かさと考える立場、つまり“金(かね)”というパラダイムである。この立場からは、換金作物の大量生産、つまり“稼げる農業”への転換が期待され、農民が“稼ぐ”ためには場合によっては農業を辞め、都市労働者化することも厭わぬと考える。これらのパラダイムの対立はそれらを主張する二つの陣営の対立だけに留まらず、一人ひとりの農民の中にもこの相矛盾する二つの考えが錯綜していた、というのが実際であったろうか。
しかしいずれにしろこの“対立”はまもなく“政治的に”決着する。「農業基本法」の成立(1961年)である。この法律により、高度経済成長論を背景にした農業政策、つまり近代化農政がスタートする。国家が選択したパラダイムは“稼ぐ農業”だった。その結果、もう一つの自給パラダイムは急速に衰退していく。アナーキーな“百花繚乱”は、一瞬の後に強権的に圧殺されたのである。

それから半世紀。久宗の述べた農民・農村を巡る「災厄」は克服されたのであろうか。
「耕地の狭小」は結局克服されなかった。政府が繰り出す“農地集約”“規模拡大”政策も農民にはアピールしなかった。現在もなお農家の平均経営面積は1.8haにすぎず、EUの九分の一、合衆国の九十九分の一、オーストラリアの千九百二分の一である(2006年農水省)。久宗が強く願った農家の「貧困」克服は、達成されたかに見える。ただしそれは出稼ぎ、兼業など農外収入を通じてであった。近代化農政がいう“他産業並み”の収入は“農家の家計”にはあてはまったかもしれないが、“農業”にはあてはまらなかった。その後の日本の農業は政府の主張した“稼げる産業”には脱皮できなかったのである。
一方経済の高度成長は農民の離農を激しく加速した。工業社会の進展には、多くの土地と労働力が必要だった。この時代の農業政策は、農地をいかに工業的、都市的用地として掃き出させるか、また農業労働力をいかに工業・都市労働力に転換させるかに傾注するものだった。その結果、農村から都市への激しい人口流出が続いた。農村は一気に過疎化、そして“限界集落”化した。久宗が懸念した農村の「人口過剰」は、こうして“克服”されたのである。さらに農家の「合理的食生活」は、海外から輸入される膨大な食糧により、“達成”された。作業の多くを機械力に頼る現在の農民は、“都市民並みに”運動不足と過食による生活習慣病に苦しんでいる。一方「農地の高度利用」は明らかに失敗した。裏作の衰退、単作化に伴う輪作体系の崩壊、減反、耕作放棄・・・。久宗の農業論は、政府の主張する“稼ぐ農業”論により政治的に圧殺された。しかしその政府の“理想”もまた瓦解したのだ。その結果今、日本の農業は限りなく衰えようとしている。
自給主義、有畜複合、土地の高度活用。久宗の立体農業は、70年代に始まる日本での有機農業(運動)の一つの源流となったのは明らかだ。その理念と技術は現在の有機農業経営農家に活かされている。また立体農業は、中山間地での自給的農家の“くらしの技法”として現在でも極めて有効である。また農地の徹底的な高度活用の精神は、輪作、混作、間作などの技術として土地面積の狭い市民農園などでも実践されうる。つまり久宗の農業論は交換経済パラダイムでは無力と刻印を押されたとしても、自給経済パラダイムではその真価を大いに発揮する。
一方立体農業は、現在熱帯地域などで実践されているアグロフォレストリー(注13)、あるいはオーストラリアのビル・モリソンらが提唱するパーマカルチァー(注14)などの農業体系にも連なる。これらはいずれも70年代に構想されたもので、賀川と久宗の先見性は注目しなければならない。

(5)そして新しい“飢饉”の時代へ 
              
賀川や久宗は繰り返し、飢饉の恐ろしさを警告した。しかし久宗の著作が出てまもなくの50年代半ば、日本の農業は米の完全自給を達成した。冷害も克服されつつあった。耐冷性品種の開発、保温折衷苗代の普及、水管理の合理化・・・。これらはあの“百花繚乱”の時代の官民一体となった研究の成果であった。
そして21世紀初頭の今。まもなく新しい、そして深刻な“飢饉”がやってくる。“輸入食糧ゼロの日”の到来である。それは“百花繚乱”の時代を圧殺した日本の農業がいつか直面しなければならない宿命であろう。終戦直後、久宗は輸入食糧の出現に強い危機意識をもった。しかし歴史は反転したのだ。まもなく立体農業の真価があらためて明らかになる日がやってくる。


(1) 雨水が流れる勢いで表土が削られ深い溝ができる
(2) “After man the desert”
(3) 著者は別の所で、イナゴマメ、サイカチ、メスキートなどを紹介している
(4) モチノキの仲間
(5) 1888年神戸市生まれ。神学校を卒業後、合衆国プリンストン大学に留学。1909年神戸のスラム街に住み込み、貧民救済活動を始める。キリスト者の立場から、労働運動、農民運動、社会運動などに広く取り組む。インドのガンディーと並ぶ「東洋の聖人」として、欧米で最も知られた日本人だった。自伝的小説『死線を越えて』など著書多数。その内数冊は欧米で翻訳され、1947年、48年二年連続ノーベル文学賞候補だったことが最近明らかにされた。1960年没。
(6) 1927年賀川は神戸市の自宅に「日本農民福音学校」を設立。後述する久宗壮はここの専任講師を務めた。さらに賀川の弟子である藤崎盛一が33年東京世田谷に「武蔵野農民福音学校」を設立。これらの学校では、キリスト教のほか立体農業の講義も行われた。
(7) 久宗の略歴については以下の文献を参照した
田中芳三編『久宗立体農業の創始者 久宗壮の生きざま』(1987年・久宗美加発行)
(8) http://okayama.lin.go.jp/tosyo/s2902/tks04.htm
(9) 農林省農業改良局監修『農事研究会読本シリーズ② 農事研究のやり方』(1951年・農民教育協会)
(10) 伊藤健次著(1958年・地球出版社)
(11) 斉藤光夫著(1964年・家の光協会)
(12) 山岸巳代蔵(1901〜1961)とその農法については以下の文献を参照
ヤマギシズム生活実顕本庁文化科編『人間と自然が一体のヤマギシズム農法』(1987年・農文協)
 玉川信明著『評伝山岸巳代蔵 ニワトリ共同体の実顕者』(2006年・社会評論社)
(13) Agroforestry(森林農業)。樹木を栽培し、樹間で家畜飼育や作物栽培を行い、林業と農業の共生を目指す。この用語はカナダ国際開発研究センターの研究者ベネらにより唱導。
(14) Permaculture。永続可能な暮らしをつくることを目的に、身の回りにある多様な要素(地形、気候、動植物、人間など)を合理的な関係に配置する総合的なデザイン体系。以下の文献を参照。
ビル・モリソン/レニ・ミア・スレイ共著 田口恒夫/小祝慶子共訳『パーマカルチャー・農的暮らしの永久デザイン』(1993年・農文協)